パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム原理主義組織ハマスとイスラエル軍による大規模戦闘。ガザ北部でイスラエル軍が攻勢を強める中、日本人女性がガザ南部での避難生活を経て11月初め、エジプトへ退避した。避難中に目にしたのは、ガザ南部でも繰り返される空爆や、生きる気力を失った市民の姿。「ガザに安全な場所はない」。願うのは、一刻も早い停戦の実現だ。
「エジプトに退避できたときは安堵(あんど)したが、市民はこの瞬間も命の危険にさらされている」
「国境なき医師団」の日本人スタッフ、白根(しらね)麻衣子さん(36)は、エジプトに退避後、カイロからのオンライン記者会見でそう語った。
5月にガザへ派遣され、現地スタッフの採用などを担当していた。10月13日、医師団の宿舎などがあった北部のガザ市を離れて南部へ避難。11月1日、日本人スタッフ2人とともに南部のラファ検問所から越境し、5日には日本へ帰国した。
イスラエル軍がガザ市を包囲して「南北分断」を図る一方、北部から数万人超が南部へ避難したとされる。ただ、白根さんが南部に避難中も昼夜を問わず空爆が続いた。
「自分のいる場所が次の瞬間にはなくなっているかもしれない。日々、そんな恐怖があった。南部だから安全ということはなかった」
避難生活で忘れられない光景がある。空爆の音が響く中、子供や高齢者らが屋外で雨に打たれながら座り込み、涙を流していた。「犠牲になるのは弱者ばかりだ」と強い憤りを覚えたという。
大規模戦闘は10月7日の土曜早朝、ハマスがイスラエルに奇襲して始まった。ガザ市の宿舎にいた白根さんは「いつもの週末だと思って」眠っていたが、午前6時半ごろに爆破音で目覚めた。
宿舎の窓を開けると、目前のビルの裏手から無数のミサイルが発射されるのが見えた。約4年前にガザに派遣された際も武力衝突があったが、「これまでと全く違う」と直感した。
慌てて同僚らと宿舎内の避難部屋に逃げ込んだ。息をひそめて数日間を過ごした後、医師団の車両で南部に向かった。
車中からの光景に言葉を失った。建物はがれきの山に変わり、道路には行き場を失った市民がたたずむ。「乗せてくれ」「何で行くんだ」と叫びながら車を追いかけてくる市民もいた。白根さんは「心が張り裂けそうでした」と強調した。
南部では、避難所に入りきらない人たちが路上にあふれ、白根さんも外で寝泊まりした。「夜でも外気温が15度くらいだったのが救い」だった。
食事は現地スタッフが調達した缶詰やパンを中心に1日1~2食。最後には食料も底を突いた。まさに「極限状態」という3週間超の避難生活を振り返り、白根さんは一刻も早い停戦を訴える。
「当たり前の日常が一瞬で無くなり、人の命が簡単に奪われる。そんなことは誰も経験すべきではない」
「一つの家族」 双方の若者を受け入れた男性
4年前、イスラエルとパレスチナの若者2人をホームステイで受け入れた京都府綾部市の旅行代理店経営、佐々木崇人(たかと)さん(45)は「一つの家族」として2人と一緒に過ごした時間が忘れられない。中東情勢が深刻化する中、「無事でいてほしい」と祈り続ける。
綾部市は平成15年から、中東の紛争遺族らを日本に招いて交流する「中東和平プロジェクト」を開始。事業に参加した佐々木さんの自宅に令和元年夏、2人の女性がやって来た。
イスラエルのミハル・エリーザーさんと、パレスチナのルアンダ・アクタムさん。いずれも当時20代で法律を学ぶ大学生だった。イスラエル、パレスチナ双方で紛争が続き、佐々木さんは2人が仲良くできるのか心配したが、そんな不安は杞憂(きゆう)に終わった。
箸や浴衣の着付けといった日本文化を体験したり、ゲームを楽しんだり。数日間の滞在だったが、同じ屋根の下で寝食をともにし、かけがえのない時間を過ごした。「2人からは『仲良くなろう』という思いが伝わってきた」。
だが今年10月7日、双方の戦闘が始まった。佐々木さんは「2人とも少しでも良い方向になると思っていたはず。個人の思いが踏みにじられた」と肩を落とす。
同11日、連絡先を交換していたエリーザーさんに安否を尋ねると翌日、「主人は徴兵された。今は娘と2人で暮らしている」と返信があった。一方、アクタムさんとは連絡先を交換できておらず、安否は分からない。
佐々木さんは「2人には幸せになってほしいし、平和になってほしい。無事でいてくれれば」と語った。(小川恵理子、荻野好古)
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